薩摩若太夫正本 説経祭文 小栗判官照手姫

薩摩若太夫正本
説経祭文 小栗判官・照手姫
全33段
横山町和泉屋栄吉
馬喰町吉田小吉板
天保~弘化(1830~1847年代)
早稲田大学演劇博物館所蔵特別本(検索番号二13-13)

 

第一段 御菩薩池段 上

 

第一段
御菩薩池段 上
みそろが池たん

 

去る程に、是は又
人皇百一代、御小松院の御宇
これも都に隠れ無き
三条高倉大納言兼家卿の御嫡子
小栗判官政清とて
文武二道の備わりし
高家一人(いちにん)おわせしが
そもそも、小栗と申するは
父、高倉の大納言、子の無き事を悲しみて
鞍馬大悲多聞天へ七日が間通夜をなし
授かり給いし御子にて
御成長に従いて
人に優れて知恵高く
十八才の御年に
馬術の奥義を、極められ
又、歌道(かどう)も深め
自然と四相を悟られて
力の程は奥知れず
まった、それに従う十人の殿原
首位眷属は、池の庄司利門(いけのしょうじとしかど)
水戸、浮舟初俊(うきふねはつとし)三津田、北村、稲葉、土佐、
平井、北条、千葉民部(ちばみんぶ)
何れも小栗に劣らぬ十人の殿原
或る日、判官政清は、父高倉に打ち向かい
「如何にとよ、父上
御(おん)承れば某は、
鞍馬山(さん)大悲多聞天の申し子とある
何卒、今宵一夜、御(おん)暇(いとま)を給らば、多聞天へ参籠し
武運長久祈りの為、今宵、通夜仕らん
何卒、今宵一夜、御暇、給われ」
と、願えば、高倉大納言、そのまま、参詣許さるる
判官、御(ご)祈誓限り無く
紋紗(もんしゃ)の狩衣爽やかに
黄金(こがね)造りの太刀を佩き
風折烏帽子の紐締めて
水戸、浮舟の両人、その夜の共に召し連れて
早や、黄昏の頃なるが
高倉館を立ち出でて、鞍馬を指して、急がるる
程無く、御山(みやま)になりぬれば
うがい、手水(ちょうず)で身を清め
静々、御堂へ上がられて
「如何にとよ、水戸、浮舟
某は、大願ありて今宵一夜の通夜をなす
その方達は、館へ戻り
満ずる明け方に迎えに参るべし」
「はは、畏まって候」と
主命なれば是非も無く
鞍馬山(さん)を立ち出でて
高倉館へ戻りける
後にも残る小栗殿
心静に、知らせの鰐口、打ち鳴らし
只一心に、手を合わせ
「南無有為大悲多聞天
乞い願わくば、願わくば
武運を益々長久に守らせ給い」
と小栗殿、一夜の通夜をなされける
次第にその夜も更け渡る
早や、丑三つの頃なるが
小栗、心に思すには
『神清(すず)しめの御神楽
心の内にて、捧げん』と
召されし小袖の袂振り
常々、御秘蔵なし給う
篠の横笛(おうてき)取り出だし
八つの歌口湿めされて
星も下るか、想夫恋(そうふれん)、獅子団乱旋(ししとらでん)の名曲を
押し返しては、押し戻し
半時ばかりも、吹かれしは
由々しかりける、次第なり

 

第一段 御菩薩池段 下

第一段
御菩薩池段 下
みそろが池たん

 

さればにや、これは又
既にその夜の月代
最早、山の端に昇りける
それは扨置き、ここに又
鞍馬山(さん)の麓には
御菩薩ヶ池と名付けたる
大いなる池のありつるが
即ち、池の最中(もなか)には
年経る(ふる)大蛇の棲みけるが
掛かる小栗が笛の音に
暫く、聞き取れ居たりしが
心につくづく想うには
「はっはあ
浅ましきは蛇道なり
夜に三度、日に三度
三熱の苦しみ有り
去りながら、一度尊っとき人間と
契りを込めてあるならば
忽ち三熱の苦しみを逃れ
この身の出世疑い無きとある
小栗判官政清は、都三条高倉の大納言
兼家卿の御嫡子
さあらば、謀り近付いて
蛇道の苦しみ逃れん」
と、忽ち彼の大蛇
二八余りの、美しき賤の女子と身を変化
御菩薩池を立ち出でて
多聞天へと急がるる
程無く、御堂になりけるが
判官、それと見るよりも
はっと驚き笛をやめ
「はて、合点の行かぬ
斯く深更(しんこう)に更け渡り人家離れし、この御堂
女子の身として只一人(ひとり)
来たる事、心得難し
正(まさ)しく、我が大願を妨げんと
迷い、変化の所為(しょい)ならん
正体、それにて現せ」
と仰せに、龍女は、てを付いて
「申し上げます、お殿様
そも、自らと申するは
麓の辺(ほとり)の者なるが
継母の不興を身に受けて
今宵、家屋を追い出され
血縁、所縁(ゆかり)もあらざれば
頼る方とて候らわず
多聞天と申するは
愛縁、機縁を守らるる
霊験あらたにましませば
今宵一夜の通夜をなし
我が身の上を良き様に祈らんものと
麓より遙々参詣致す者
哀れ不憫と思し召しお御情け
掛けさせ給われ」
と、誠しやかに申しける
その物腰の褄外れ
誠に容顔麗しく
判官、つくづくご覧じて
「さては、左様に候や
その義が誠にあるならば
館へ召し連れ戻らん」
と、さしもに猛き小栗殿
大蛇に性根を奪われて
心も漫ろ(そぞろ)にそれよりも
下向の鰐口、打ち鳴らし
礼拝なして、龍女の手を取り
まだ、東雲の頃なるが
多聞天を立ち出でて
高倉館へ戻らるる
斯くて、館になりぬれば
毎夜毎夜の寝屋の伽
月日を送らせ給いしが
龍女、つくづく思うには
「我、蛇道の苦しみを逃れんと
判官殿を謀り、
深く契を籠めけるが
もしも、御種を宿すなら
かえって出世の妨げ
名残惜しくは思えども
最早、御菩薩へ戻らん」
と、南表へ立ち出でて
空に向かいて、を招くと見えけるが
ああら不思議の次第なり
晴天俄に搔き曇り
黒雲(くろくも)ひと叢(むら)舞い下がる
龍女はそれと見るよりも
ひらりと雲に打ち乗れば
二十尋(はたひろ)余りの大蛇とこそは現われて
御菩薩池へ一散に、
雲に紛れて飛んで行く
なんなく池になりぬれば
八大竜王、大きに逆鱗(げきりん)ましまして
「人間と契りを籠めて
その身を汚せしことなれば
我が棲む池へは叶わなじ」
と、八大竜王、入じとす
大蛇は、押して入らんとす
震動雷電霹靂神(しんどうらいでんはたたがみ)
大風(だいふう)民家を吹き潰し
雨は車軸を流しける
二夜三日がその内は
誠に昼夜の分かち無し
御門にては大臣公卿集まりて
時の博士を召され、占わせみるに
「これは、三条高倉大納言兼家卿の嫡子、小栗判官政清
御菩薩池の大蛇と契を籠め
大蛇、八大竜王の咎めを被り
池へ入ること叶わぬ故
掛かる荒れにて候」
と、見通す如くに奏聞す
御門、大いに逆鱗ましまして
「にっくき判官政清が振る舞い」
即時に高倉大納言兼家を召され
小栗判官政清を
常陸へ流罪に申し付けらるる
御門の勅勘(ちょっかん)恐れ入り
御受けなして兼家卿
館へこそは下がらるる

 

第二段 黒木の段 上

第二段
黒木の段 上
くろぎのだん 若太夫直伝

 

さればにやこれはまた
御労しの小栗殿
御門の御勘気被りて
十人殿原諸共に
遙々、常陸へ下らるる
常陸は、北条玉造
鳥羽田(たっぱた)村へ
(※茨城県東茨城郡茨城町鳥羽田・円福寺, 小栗堂)
新たに御殿を建てられて
黒木の館と名付けられ
只、朝夕に小栗殿
弓馬の道を怠らず
又、ある時は打ち寄りて
連歌、俳諧楽しみて
空しく年月を送らるる
或る日、判官政清殿
あまりの事の物憂さに
十人殿原、集められ
種々の肴を催うなし
御酒宴なされおわせしが
掛かる折からここに又
香具屋(こうぐや)後藤介国は
折しも常陸を回りしが
黒木の殿に差し掛かり
「はて、合点の行かぬ
この前廻った時には
この様な御殿は無かったり
新たに立ったるこの御殿の結構
何がな良き伝手(つて)を求めて御殿へ上がり
商いなしたきものなり」
と、門前にて高らかに
香具(こうぐ)の品を呼び立てる
その声、御殿へ聞こえける
判官、受けたる盃を、下に置き
「あれ、聞かれよ、殿原達
我、都を離れ、掛かる常陸へ移り
久々にて珍しき商人(あきゅうど)の物呼ぶ音がいたす
あの商人をこれへ招き
酒の相手となし
四方山の話しを聞かば
時の一興にもならん
誰かある
あの商人を是へ召し連れては如何に候」
と、仰せにはっと、千葉民部
「畏まって候」
と、門前指して走り行き
「我が君様の思し召しなり
さあ、さあ、是へ」
と連れ来たり
草鞋(わらんじ)脚絆を脱ぎ取らせ
御前(ごぜん)を指して召し連れる
斯くて、御前になりぬれば
「仰せに任せ商人、是へ召し連れまして候えば
まづまづ御盃を下し置かれて然るべし」
判官、聞こし召され
「心得たり」と
そのまま盃取りあげて、ぐっと乾し
商人後藤に下さるる
後藤ははっと、面を上げ
「これはこれは、思いがけなき
御盃を頂戴仕ること
誠に早や、冥加に叶いし
有り難き仕合わせに存じ奉ります」
と、なみなみ受けてひとつ乾し
傍に座したる執権職
池の庄司に憚らず
判官、後藤に打ち向かい
「最前、是にて承れば
何やらその方は面白そうな物を呼ぶ声
如何なる品を売買なし
その方が名は何と申す」
と御尋ねに、後藤、はっと面を上げ
「恐れながら、申し上げます
大阪にては、醒ヶ井後藤
京都にては、呉服後藤
関東にては、香具後藤介国と申しまするは
下拙が事にござります
およそ、日本に後藤を名乗る者
この三人より外は、候らわず
六十余州、国々広しと申しますれど
下拙が廻らぬ所と申しては候らわず
香具の品にご用あらば
仰せ付けられくださりょうものならば
有り難き、仕合わせに存じ奉ります」と

第二段 黒木の段 下

第二段
黒木の段 下
くろぎのだん 若太夫直伝

 

(と、)
申し上ぐれば、執権庄司利門聞いて
「これはしたり、介国とやら
我が君様と申するは、聞きも及ばん
都三条高倉の大納言兼家卿の御嫡子
子細あって、かかる常陸へ蟄居の御身の上
其方(そなた)が見らるる通り
女人とては一人(いちにん)もなきこの御殿
香具の品には用事はない
其方、六十余州、国々広しと申すれども
廻らぬ所は無いとある
定めし、何処(いづく)にか
良き姫の候わん
酒の肴、時の一興に
語りお聞かせ申しては如何に候」
と、問われて後藤、心の内に思うには
『無いと言わんも残念』と心得
「へい、只今も申し上げまする通り
六十余州、国々広しと申すれど
下拙が廻らぬ所と申しては候らわねど
ここぞと申す姫君も無きもの
去りながら、相模の国の郡代
横山将監照元の乙の姫
照手の姫の粧いを
物によくよく例えなば
春の花なら初桜
あきの月なら十三夜
冴えに冴えたる御風情
三十二相と申すれど
八十二相の備わらせ
類い希なる姫君なり
是より外に、下拙めが思い当たるは候らわず」
と、両手を付いて申しける
小栗は、それと聞くよりも
見もせぬ姫に憧れて
心も漫(そぞ)ろに浮かれ立ち
「何と介国とやら
さまでに見目美しき照手の姫
某へ仲立ち致してはくれまいか」
後藤は聞いて打ち笑い
「いやはや、殿方と申す者は
愚かな事を御意遊ばす
承れば、あなた様は
都三条高倉の大納言兼家卿の御嫡子とある
先も小身(しょうしん)とは申しながら
相模の国の郡代、横山将監照元
仲人、媒(なかだち)なぞと申しまするは
同輩同格の義
下拙は、ご覧の通り、
その日暮らしの小間物売り
仲人、媒なぞとは思いも寄らざる事
去りながら、さまでに
その姫君を御執心に思し召さば
艶書を認め贈らせ給え
下拙、商いついでに
これより相模の国、乾の殿に持ち行き
姫君様へ御渡し申し
色よきご返事取って戻り差し上げん
この義、如何に候」
判官、聞いて
「然らば、艶書を認め贈らん」
と、料紙硯を引き寄せて
墨摺り流し、筆を染め
薄様出してひと重ね
心の丈を筆に任せて書きしるし
松皮様に封じられ
上書きなして、池の庄司に渡さるる
利門、後藤に打ち向かい
「これ、介国殿
其方が見らるる通り
我が君様が、あの様に
心を込めて御認め遊ばされたるこの玉章
これを、其方、乾の殿とやらへ持ち行き
その姫君へ御渡し申し
色よきご返事を取って戻り
差し上げてあるならば
一角の御褒美あるらん
偏に頼む、介国殿」
後藤は、聞いて
「お気遣いなさるるな
恋の仲立ち、色恋の取り持ち
こりゃ、小間物屋が半商売
やがて、吉相、お知らせ申さん」
と、又も盃給わりて
数献(すこん)を重ね介国は
それよりお暇給わりて
黒木の殿を下がりける
殿原達は一同に
門前まで送り出し
「しからば、お別れ申すべし
さらばにまします、各々」
と、常陸の黒木を立ち出でて
相模の国へと急がるる

第三段 文の段 上

第三段
文の段 上

 

去る程にこれは又
香具屋、後藤介国は
小栗に玉章頼まれて
常陸の黒木を立ち出でて
相模の国へと急がれる
宿の名残も重なりて
相模の国に隠れ無き
横山殿の乙の姫
照手の姫の御座所
乾の殿に着きにける
まず、門前に佇み
初春のことなれば
楊枝(ようじ)歯磨き、噛み煙草入れ等を取り出し
門番の侍衆中(さむらいしゅうじゅう)に年玉出だし
年始を述べ、門内にずっと入り
長局(ながつぼね)の外面(そとも)の方
声に任せて介国は
「召せや、召しませ、伽羅を召せ
沈(じん)(※沈香)を召しませ伽羅を召せ
香箱、香箸、香包み
兵部卿には花の露
東(あずま)白粉(おしろい)
京楊枝
黄楊(つげ)の水櫛、蒔絵櫛
おまん上﨟衆(じょうろうしゅう)の寒の紅
髱差し(たぼさし)髱上げに
枕付きの長足髢(かもじ)を召しませや
香(こう)や香具
剃りなな鋏(剃り刃や鋏?)
東錦絵、草草紙(くさぞうし)
道中双六、おりはさい(賽?)
さて又、お局様方の嗜み道具
大小お好み次第にて
鼈甲細工のはは(?)貼り箱召せ」
と、呼びければ
その声、御殿へ聞こえ、兵庫の局
「あれあれ、皆の衆
確かにあれは、後藤介国久々にて参りし
御上のご用の品もあり
誰かある、介国を早や早や御殿へ」
と局のお召し
端(はた)が取り次ぐ
城(じょう)御番の侍、そこに立ち出で
「これ、介国殿
御殿にて、お局様がお召しなさるる」
と、呼び入れられて、後藤介国
城御番の侍衆中へ
名々(めいめい)に年玉を出だし
年始を述べ、端が案内
介国は、怖(お)めず憶せず、静々と
兵庫の局の部屋に入り
千駄、唐櫃、懸け籠(かけご)を外し
中よりも、錦絵なぞを取り出だし
年玉となして、両手を付き
「誠に、お局様
明けましは結構な春にござります」と
年始を述べれば、兵庫の局
「これはこれは介国殿
この様に、年玉に預かる
其方が打ち絶えて久しう来やらぬ故
御上のご用の品もあり
早や早や、香具の品を出してよからん」と、仰せに後藤
売り物に、花を飾るはここなりと懸け籠を外して小間物を
局の前に並べける
皆々女中は集まりて
黄楊の水櫛召すもあり
匂い油を召すもあり
東白粉召すもあり
寒の紅をと、てんでに、直(ちょく)を出して召すもあり
「あれは御上のお求めぞ
これは妾が求めん」と
思いのままなる商いす
兵庫の局は、その時に
「これこれ、介国殿
最早、外になんぞ、珍しき品はあらざるや
何がな、珍しき品あらば
姫君様へ、初春のお慰みに差し上げん」
と、問われて後藤、心の内に思うには
『ここぞ、小栗様から頼まれたる
かの玉章を出だす良き折から』
と、心得
「へい、お局様へ申し上げます
これぞと申しましてお姫様は
お慰みに差し上げましょうようなる
何も、珍しき品も候らわずが、
去暮(きょくれ)、常陸の国を回りし時
去る御大名、御殿物見窓下にて
玉章を一通拾い取りましてござりますが
ご覧の通り、心忙(せわ)しき小間物売り
読み取る暇も候わねば
打ち捨て置きましたるこの玉章
これを、あなた方へ差し上げましょう
良き文言の候らわば御手本
悪しくば、時のお笑いぐさ
ご覧あそばせ」
と、差し出せば
局は、取って上書きを打ち眺め
「何々、月に星、雨に霰
これこれ皆の衆
この玉章の上書きは
月に星、雨に霰と書いてある
世にも可笑しき玉章の上書きもあればあるもの
大方、これは心狂乱人の書かれしか
但しは文(ぶん)を知らざる人
知ったふりにもてなして、書かれしか
世にも可笑しき玉章の上書き
皆々、これを見られよ」
と、出せば、数多の女中達
皆、一同に打ち寄りて
かの玉章の上書きを
どっと返して、打ち笑う
その声一間に漏れ聞こえ
七重八重なる奥よりも
静々、出でる姫君の
姿をものに喩えなば
垂れ柳のその枝に
八重の桜を咲かせつつ
桜の香りのある如く
辺りも輝くばかりなり
兵庫の局の傍近く
「これこれ、皆の者
其文字(そもじ)達は、何をそのように面白そうに笑わせ給う
面白き事あるならば
姫に聞かせて、自らが
心の憂さを晴らさせてたもやいの

第三段 文の段 下

第三段
文の段 下

 

仰せに局は、はっと両手を付き
「申し、姫君様
これなる後藤介国
久々にて、上りし故
『何がな珍しき品のあるならば
姫君へ差し上げん』と
申しましたりや
『何も珍しき品は候わねど
去る暮れ、常陸の国を回りし時
去る御大名、御殿物見の窓下にて
拾いたる玉章
これを、あなた方へ差し上げん
良き文言のあるならば手本にせよ
悪しくば、時の笑いに致せ』と
出だす玉章
上書きを見ますれば
月に星、雨に霰と書いてござります故
世にも可笑しき玉章の上書きと
皆、打ち寄りまして
御上も憚らず、只今の笑い仕りましてござります
姫君様、この玉章の上書き
ご覧遊ばせ」
と出せば、姫君、手に取りて
彼の玉章の上書きを
しばらく、みとれておわせしが
「ええ、情け無い、皆の者
狂乱人とは何事ぞ
この筆勢の見事さよ
天晴れ気高き能筆ぞ
それ、人は百様達するとも
只一様知らざれば、人を誹るな 物争いそべからず
月に星、雨に霰と召されし
殿御の心はの
世界に女子は多けれど
焦がるる人は君一人と
月になぞらえ、先を崇(あが)めて書きしこの上書き
定めし中には、良き文体(ぶんてい)のありつらん」と
封じ目切って、上紙はねて、押し開き
「ても、美しき筆勢ぞ
峰に立つ鹿、薄紅葉(うすもみじ)
弦無き弓に羽抜け鳥
池の真菰、野中の清水
埋づみし野火に、尺長髢(しゃくながかもじ)
丈(たけ)の帯、軒端の露に根笹の霰と、召されける
面白の謎の文言、さりながら
斯様に読んでは、其文字達は分かるまい
恥ずかしながら自らが
伊勢物語、大和言葉に和らげて、読んで聞かせましょう
まず、峰に立つ鹿と召されしは
秋の鹿にはあらねども
峰にて牝鹿の声がすりゃ
麓で牡鹿、これを聞き
妻、恋かぬと読ますなり
薄紅葉葉(うすもみじば)と召されしは
この恋、心に叶うとも、色にも出すなと、是を読む
弦無き弓に羽抜け鳥
此の恋謎と申するは
思い初め(そめ)たるその日より弦無き弓の如くにて、居る(射る)にもいられぬ我が心、羽根無き鳥の如くにて、立つにも立たれぬ心なり
池の真菰と申するは
引く手数多あればとて
必ず、余の手へ靡くまい
我が手へ靡けと是を読む
野中の清水も、左の如く
必ず、他へは漏らすまい
心ひとつで済ませとや
埋づみし野火と召されしは
表にそれと出さねど、
心の内は燃え立つばかりと是を読む
尺長髢、丈の帯
この恋謎と申するは
喩えば、この恋、須弥山の山を隔てあればとて
一朝に一度は巡り会い、縁を結ぶの謎なりし
軒端の露に根笹の霰と申するは
花の袂は、触らば落ちよと、是を読む
恋を七つに分けらし
逢う恋、見る恋、語る恋
襖(ふすま)を隔てて恋う恋
逢うて後の別れの恋
雲に掛け橋、中絶えて、及ばぬ恋も恋なりし
筆の先にて、女子の心を迷わするとは、斯様なことにてありつらん
何処如何なる殿御より
何れの姫の御許へ送りし文かは知らねども
定めし、文の奥書に
先の名宛てのあるべき」
と、又巻き返して見てあれば
「何々、恋する人は
常陸北条玉造、小栗判官政清より
照手姫の御許へ」
と、見るより、はっと驚いて
「今読むことも余所の事とよと思いしに
我が身の上のことなり
斯様なことが、父上や兄、殿原へ知るなら
如何なる咎めも知れ難し
思えば思えば、恨めしきこの玉章」と、ずんだずんだに引き裂いて
そのまま其所に、打ち捨てて
一間を指して入り給う
俄に御殿は、騒ぎ立ち
上﨟、局は一同に
白綾取って、玉襷
長押(なげし)に掛けたる長刀の
鞘を外して、掻い込んで
「商人後藤介国は、
姫君様へ恋の仲立ち仕る
憎っくき後藤介国ぞ
番の侍あらざるや、出合や」っと
言う儘に、七重八重にぞ、おっ取り巻く
後藤は、わなわな震えだし
『由無き事を頼まれて
掛かる難儀に及ぶのに
常陸で小栗様は、
高見で見物なさるのか
このまま縄目に及ぶなら
黒木の殿にてあの様に
駄味噌(※つまらない自慢話)を上げた甲斐がない
如何はせん』
と介国は、暫し思案をなすなり

 

第四段 文字物語段

第四段
文字物語段
文字物語のだん
若太夫直伝

 

さればにや、是は又
『はあ、それそれ
総体、女子と申するは
上辺は利発に見えても
内心は浅はかなるもの
よしよし此の上は
文字物語に事寄せて
姫君を始め、御殿の奴原、脅し付け
玉章の返事を取って戻らん』
と、腕まくりして介国は
「やあれ、早まるまい女中方
聊爾(りょうじ)せまい、お局様
恐れながら介国が、姫君様へお尋ね申す事ある
姫君様には玉章を
何故、引き裂き給いしぞ
文字の尊っとき因縁を
ご存知あってのお破りか
但しは知らいで、破らせ給いしか
文字の尊き因縁をご存知なくば
介国が語って聞かさん
そもそも、天竺にては流沙河(りゅうさが)の川上にて
文殊菩薩、水の流れをご覧じて
初めて梵字を創らるる
又、唐土にて始まるは
漢の蒼頡(そうけつ)と言える人
山取の飛行(ひぎょう)の跡をご覧じて
初めて、唐様、創らるる
孔子老子の学者方、真・草・行と書き分ける
又、我が朝にて始まるは
神代の文字ありとはいえど
吉備大臣(※吉備真備)と言える人
数なる文字を創らるる
其の後、星霜年を経て
高野山の御開山、弘法大師
まだ、空海にて御座の時
未だ日本に、仮名遣いのあらざれば
幼き者への筆始と
いろはを四十七文字、創らるる
京の一字と申するは
忝くも、伝教大師の書き添えて
四十八文字と定まりける
文玉章と申するは
総体、仮名にて記するなり
左迄に尊っとき仮名の文字
一字破らせ給うなら
弘法大師の左の御手(おんて)をもぐ如く
二字も破らせ給うなら
右の御手をもぐ如く
三字も四字も破るなら
弘法様の一命取るも同じ事
あら怖ろしの冥罰(みょうばつ)ぞ
釈尊(しゃくそん)だにも女子をば
外面如菩薩(げめんにょぼさつ)
内心如夜叉(ないしんにょやしゃ)
と説き給う
左迄に罪業深き身を持ちて
尊っとき仮名にて記したる玉章を
引き裂き給う姫君の
御身の罪の怖ろしや
この世からに、阿鼻焦熱の病を受けて
知らで冥途へ行く時は
血の池地獄へ落ちるなり
血の池地獄と申するは
上品上生中品中生下品下生と分かるなり
さて、上品のその女
乳より上が浮き上がる
又、中品のその女
肩から上が浮き上がる
下品下生のその女
髪の毛ばかり浮くとかや
ああ、怖ろしの血の池ぞ
なれども、逃れとう思すなら
一字なりとも、二字なりとも
玉章の返事書いて送られて
殿御の心、喜ばしてあるならば
忽ち、その罪滅しまし
定まる定業来たりつつ
死して冥途へ行く時は
極楽浄土へ参るなり
その儘、捨て置き給うなら
未来は、血の池地獄なり
あら怖ろしき罪科(つみとが)」
と、どっと脅せし有様は
身の毛もよだつ斗なり
あら痛わしの姫君は
元より浅き女気の誠の事と驚いて
一間の内より走り出で
「怖ろしい物語
左迄の事とは夢知らず
この年月も自らは
数多の殿御の方よりも
送らせ給う玉章を
皆々引き裂き捨てたるが
我が身の罪の怖ろしや
如何はせん」と
照手姫、暫し、涙に暮れけるが
「はあ、それそれ
今、商人の申すには
左迄の罪を逃れんと思うには
一字なりとも二字なりとも
玉章の返事書いて送り
殿御の心を喜ばしてあるならば
忽ち、その罪滅すことある
伝え聞く小栗判官政清様は
都三条高倉の大納言兼家卿の御(おん)嫡子とある
いかなる殿御か知らねども
誘う嵐もあるならば
共に散りなん我が身ぞと
思いも更けし事なれば
破らば破れ、恋のある
父上や兄上に、貞女の道はいらざりし
小栗判官政清様を、自らが
二世の殿御と定めん」と
料紙硯を引き寄せて
墨摺り流し、筆を染め
薄様出してひと重ね
思し召さるる言の葉を
只、一筆に書き記し
松皮様に封じられ
上書きなして、兵庫の局に渡さるる
局は後藤に、打ち向かい
「これ、介国殿、姫君があの様に
せっかく心を込めて御認めあそばされたるこのお返事
どうぞ其方、小栗様とやらの御許(おんもと)へ御くっり届けて下され
一重に頼む介国殿」
と出せば、後藤、して取ったりと
喜べど、わざと勿体
「なる程、こりゃ、こうなくては叶わぬ事
幸い、下拙も、これより常陸へ下ります
一刻も早く、常陸へ急ぎ
その小栗様とやらをお尋ね申し
このご返事をお届け上げましょう
必ず案じあそばすな
お心易う思し召せ
しからば下拙もお暇申さん」と
香具の代金、頂戴し、乾の殿を下がられて
千駄唐櫃、背中に負い
先ず、門前へ出でけるが
ためろう息を、ほっとつき
「千里が野辺、竹の林に差し掛かり
虎の尾を踏み
毒蛇の口を逃れしとはここのこと
去りながら、女子(おなご)というものは
上辺は利発に見えても
内心は、浅はかなもの
ほんの口から出放題
文字語りして脅せば、誠と心得て
玉章の返事を認め贈らせ給う
さあらば常陸へ急ぎ
小栗様へ差し上げて
褒美の沙汰に預からん」
と、相模の国を立ち出でて
常陸の国へと急がるる

 

第五段 押入聟段

第五段
押入聟段
押し入り聟の段
若太夫直伝

 

さればにやこれはまた
急げば程無く介国は
宿の名残も重なりて
常陸北条玉造
黒木の殿になりければ
殿原達の案内で
すぐに御前へ通りつつ
始終の様子を申し上げ
文のお返事を差し上ぐれば
待ち設けたる小栗殿
取る手も遅しと、封を押し切りて
上紙をはね、押し開いて見てあれば
白紙(しらかみ)へ只一筆に
「何、木曽路に駆けし丸木橋
ちぇえ、聞こえた
踏み返せば(文返せば)落ちるの謎の返事、恋は上首尾
介国でかした
直ぐにこれより、相模の国
乾の殿へ押し入り聟
介国、案内仕れ
殿原、用意いたされよ」
と騒ぎ立つれば、殿原も
主命なれば是非も無く
俄に旅の用意をし
商人後藤が案内で
常陸の国を立ち出でて
相模の国へ、急がるる
心も急くまま、小栗殿
夜を日に継いでの旅の空
既に四日の昼時は
相模の国に隠れ無き
横山殿の乙の姫の御座所
乾の殿に着きにける
後藤介国、門前に立ち止まり
「ご覧遊ばせ
遙か向こうに見えますが
横山将監照元の殿
これなるが、照手姫の御座所、乾の殿
あなた方は、これより御殿へ入らせられ
『常陸の国よりの来客』と仰せられてあるならば
姫君様にも、兼ねてお待ちかねにてましまさん
下拙は最早、これにてお別れ申さん」
利門、聞いて
「その義にてあらば、介国、大義
これは我が君様より下し置かるる寸志ばかりに候」
と、包みし目録下さるる
後藤は喜び頂戴仕り
「然らば、お別れ申さん」
と、十一人の人々に
良きにお暇申し上げ
何処ともなく急ぎ行く
後にも残る主従は
先ず、門内へつうっと入り
玄関下(もと)より高らかに
「常陸の国より来客」
と、呼ばわる声に御殿は俄に騒ぎ立ち
数多の女中は一同に
「そりゃ、姫君様の恋聟様の御(おん)出で」と
皆、玄関へ出で向かい
奧の一間へ御案内
斯くて、一間になりぬれば
早や御酒宴の始まって
まだつゆ慣れぬ姫君も
兵庫の局の仲立ちで
三三九度にはあらねども
先ず、祝言の学びをし
御酒宴、次第に調じける(※調う)兵庫の局を始めとし
先ず、仲立ちは宵の内
御寝所へこそ、進めける
錦の褥(しとね)、綾の床
伽羅の枕の睦言も
「変わるまいぞや小栗様」
「何、変わるべき照手姫」
互いに、変わるな、変わらじと
夜は、比翼の床の内
昼は、連理の枝に懸け
偕老同穴の語らいも
如何でこれに勝るべき
睦まじかりける御契り