説経から説経祭文、そして今様祭文

                                                    説経浄瑠璃師 渡部八太夫 

 

 室町時代の終わりごろから、江戸時代の初め頃。今から約400年前に大変流行した「説経あやつり」は、やがて忘れ去られてしまう。辻の簓摺りから、出世して脚光を浴びた「説経」は再び、アンダーな芸能となったのだった。「説経」は舞台からは降りたが、逆にあらゆる庶民的な芸能に染み込んでいったとも言える。「口説」「音頭」「祭文」などなど。結局、「説経」の作りだしたモチーフは、現代に至っても消える事無く残っている。

 

 山伏が錫杖やホラ貝を鳴らして語る芸を、「山伏祭文」とか「貝祭文」などと言う。ここでの「祭文」というのは、そんなふうにして、山伏が語り継いできた物語のことを指す。念のため付け加えておくと、この山伏というのは、山伏の格好をした辻芸人のことである。約200年前、江戸も終わりに近い「享和」(1801~)の頃、山伏祭文に三味線を合わせて、「説経祭文」と銘打って、再び舞台に立った者が居た。それが、初代の薩摩若太夫である。

 

 その後「説経祭文」は寄席芸となり、見世物、写し絵、人形と結び付いて、明治・大正時代にはヒットしたが、先の大戦を境にばったりと姿を消した。薩摩派最後の実演者10代目若太夫が居なくなってしばらく経った頃に、私はようやく「説経祭文」に出合った。それは1992年のことだった。私がその「説経祭文」を継承し、演ずるようになった時の公演チラシには、「30年ぶりの復活」と書いてあったのを覚えている。それから又、20年程が経った。私は13代目の若太夫を襲名したが、そこに窮屈に納まって居ることはできなかった。

 

 2011年に、八太夫を名乗るようになってから、「説経祭文」の芸能性や芸術性に疑問を感じ、故意に「説経祭文」を遠ざけていた。私の意識は、400年前の「説経」や「文弥節」に注がれていた。その方が、ずっと自分らしい表現ができると思ったからである。しかし、その一方で、ある説経節の研究者が「説経祭文には『語り物としての退廃』がある」書いたことに引っかかっていたことも確かだった。

 

  ところが、その退廃の「語り物」に私を引き戻すような出会いがあったのである。あるハンセン病回復者がいた。彼の幼い頃の思い出には「母が歌っていた『葛の葉子別れ』」の物語が刻み込まれていた。ひょんなことから、その思い出の物語を、ハンセン病療養所のホールで語ることになったのだった。私は独り、弾き語りで演じた。人形を気にすることはないので、「説経祭文」独特の節をのびやかに歌いもした。すると、「説経祭文」を面白いという者がいたのだ。その歌が心にしみて泣けたという者もいた。意外だった。人形の地方(じかた)としての「説経祭文」に、私はもうなんの期待もしていなかったからだ。この時から私は、「説経祭文」とはひょっとして「歌」なのではないかと、思うようになった。名もなき者たちとともにある「歌」だったのではないかと。

 

 「語り物」「人形の地方」という固定観念を捨てて、「歌」としての性質も加味して捉え直せば、「説経祭文」にも人間の力強い生き様が刻まれているのが見えて来る。人びととともに旅をする「説経祭文」がさまざまな土地で神に出会い、人間に出会う風景も見えてきた。その出会いのなか、瞽女唄や五色軍談、浪曲のような諸芸能とも交わっていったことにあらためて気づかされた。「説経祭文」よ、見直したぞ。

 

  さて、いったん「説経祭文」にまっすぐに向き合いはじめたら、周囲のお節介な人びとが、「過去ばかり見ていてはいけない」と言ってくる。「昔のまんまでやっていては説経祭文が死んでしまう」と言う。「おまえの祭文を創れ」とまで言う。そんなことは、今まで考えもしなかったが、どうもいつの間にか、「今様祭文」という新たな道まで見えてきて、われながらびっくりしている。

 

 200年前のものをもう200年先へ、400年前のものをもう400年先へ、これから作る「今様祭文」は、千年先まで響かせてやろう。